神々の唄

カエターノ

もしも神様というものが存在していて、そして彼は音楽が大好きで、毎週レコファンに行っていろいろとCDを漁っているとすれば、おそらくのところカエターノヴェローゾのCDを好んで購入しているのではないだろうか。カエターノヴェローゾというのはブラジルで最も有名なアーティストで、一応のところボサノヴァに分類されるが、ボサノヴァの枠にとどまらない創造的なアーティストであり、歌手というよりも芸術家と言ったほうがよほどしっくりくる。どうして神様がカエターノの音楽を好んで聴くのかと問われれば、そこには様々な理由があってボクはそんな風な考えに至っているのだが一つには、彼はブラジルのアーティストであり、ブラジルというのはキリスト教が主な宗教だからである。そしていま一つには、彼のつむぐメロディと歌声はあまりにも美しく、この世のものとは思えないようなものだから。神様というのはそもそも観念的な存在で、形而上で捉えられるものだから、カエターノの現実離れしたほどの美しい音と神様という存在が結びついたのだ。

そして今日は神様のヘヴィーローテーションになっているカエターノのライブが東京国際フォーラムで行われ、それに行って来た。8800円というバカみたいに高いチケット代に加え、ボサノヴァのライブということもあってスタンディングではなく席がついていて、客層はおそらくボクよりも何年か年をとっている人が多いことが予想され、ボクとしては8800円の元をとるほどに楽しめるのか不安で仕様がなかった。しかしいざライブが始まると、ジョージクルーニーばりの甘いマスクのおっさんが、ギターで嘘みたいに美しい旋律を奏でながら、これまた奇跡的に美しい歌声でポルトガル語の歌詞を歌うもんだから、少量だが形となった一粒の確実な涙がボクの頬をゆっくりと伝っていった。一曲目は「Livro」というアルバムに収録されている「Minha Vos,Minha Vida」という曲で、ボクもかなりこの曲が好きで、その上にカエターノのギター弾き語りだったから、その幻想的で情感たっぷりな歌声を聴いた途端に8800円の元をとったと思った。それから後は数曲英語の曲ばかりで残念だったが、それが終わるとポルトガル語の曲が多くなり、チェロやアップライトベースエレキギターやパーカッションをフィーチュアした曲が数曲続き、天使のごとき恍惚を味わった。最初はまわりのブラジル人だけが「フー」とか言っていて、なんだか気恥ずかしかったボクも、途中くらいで再びやったカエターノの弾き語りの曲が終わると思わず声をあげてしまい、ボサノヴァのライブでそんなことしてもいいものかな、と多少逡巡した。

そして弾き語りが4曲くらい続いて2回目の涙を流した後にポルトガル語でロックやレゲエをやって、この人をフライヤーなどで「ボサノヴァの貴公子」と表記するのは今日限りでやめてほしいと思った。そんなしょうもない枠にはまる芸術家ではない。アンコール前の曲がそのレゲエの曲で、その圧倒的なパフォーマンスに5分ほど、スタンディングオベーションが鳴り止まず、アンコールが始まると、気のいいおっちゃんの彼は「yeah!!」と言って、さすがにブラジル人はノリがラテンやなあ、と思い、祖国ではTV番組の司会を務めるのもうなづけるなあ、と思っていたらエルヴィスのカヴァーの「Love me tender」が始まり、そこから二曲やるとまたスタンディングオベーションで、カエターノもじゃあという風に時計をさし、「もう一曲ね」という風な感じでひとさし指をたてて、無邪気な感じで素晴らしいボサノヴァの曲を披露してくれた。結局4曲もアンコールをやってくれて、その後はオーディエンスが大量にステージ近くまで詰め寄り、握手を求め、花をプレゼントするというようなことが起こった。ボクもそのどさくさに紛れてカエターノの手の感触を楽しむように握手をすることに成功し、その右手をぢっと見た。毎日こんなに幸せだったらいいのに、と思った。

明日は憂鬱な引越し。なんとか引越しを阻止する方法はないものだろうか。カエターノ歌声が天国な分、引越しは地獄に見えてきた。嘘嘘。あー楽しみ。今日で遠藤738-6からブログを配信するのは最後になります。

みなの興味のないアーティストのことをうだうだうどんと書いてごめーんね。知るかよタコ。

(5月26日 2時37分)