月面を何歩歩けるか

今日、こんな誰も見ていないようなブログに文章を書こうと思ったのは、なにかを書き続けていればいつかは世に自信を持ってどーんと送り出せるようないい文章を書けるようになるのではないかという淡い期待を、今まさに行動に移したからだ。
行動に移したまではよかった。普段から重い腰にさらに持ち前のプライドがその腰を引っ張り、結局なにも動かずに終わったことが何度あったことか。しかし今日はそんなプライドを払いのけ、なんやったらしばき倒してノートパソコンを手にとって電源をつけ、エクスプローラを立ち上げ、はてなにログインし、「うだうだうどん」の日記を書くという文字をクリックしてみた。ここまではよかった。自分にはめったに無い進歩である。人類にとっては死ぬほどどうしようもないワンクリックであるが、僕にとっては月面にはじめて足を下ろしたくらいの進歩である。今日はその一歩目から、いったい何歩あるくことができるのだろう。
しかし、今週、まわりでは特におもしろい出来事が無かった。意気揚々と一歩目を踏み出したわけだが、2歩目を踏み出す足場がなかなか見つからない。2歩目が見えないから、一歩目が踏み出せない。これまではいつもそうだったのだと思う。だから今日ぐらいは、二歩目の着地点を探しながらではあるが、とにかく足を動かしてみようと思う。
特に何も無い一週間ではあったが、救いはある。というより、ここ数週間ほど、その救いに全体重を預けている。救いというのはもちろんのところ愛する人である。よって、基本的には幸せな毎日を過ごしている。だからといって何もないというのは、書く価値のあることが何も無いということである。自分のの幸せはこの世で一番書く価値のないものであり、人の幸せは最も読む価値のないものである。2番目は若い女の悩みである。というわけで、僕の現在はただ単に幸せな毎日だということを結局伝えてしまったわけである。なんという嫌悪されるべき文章であろうか!
ところで、ただ単に幸せな僕は、今回のブログの中で最近感じたこととかのベタなことをなんとか読むに値するものにしようと思ったのだが、最近感じたことなんて特になにもないことに気づいて愕然としながら、今まさにタイプしている。良い文章を書く人間とは、文字通りに良い文章(文体や言葉の選び方)を書く人間ではなく、感じたことそのものが価値があり、さらに他人が読むに値するレベルの文章で表現できる人間のことを言う。
そういう意味では、内容の無い文章をただただ書いていることに何も光明は無いわけである。しかし、今ここで文章が終わってしまっては、結局2歩目の着地点の見当もつかないまま足を戻してしまうことになる。なんとか、2歩目を見つけたいという欲が僕の両手を動かしている。それは、苦しい作業である。2歩目が見つかる保証などどこにもないのに、戻ることもできない。ここで僕は煙草をとって一息つくことにする。二歩目を見つける作業には、休憩も必要だ。
ところで僕は2ヶ月ほど前から、会社員になった。会社員とはこんなにも面倒なものかと日々感じながらも、何もしない毎日よりはいいのかもしれないと思っている。その一方で、学生時代のなにもしなくていい毎日を欲してもいる。自分にはどちらが合っているのかは分からない。会社員になってから、自分のことがどんどん分からなくなってくる。自分がなにをしている時が一番心地良いのか、自分はどうすればうまく生きていけるのか、そういったことだ。楽に生きたいという意識はあるものの、自分から楽な道を選んでいるわけではないし、性格的に選ぶことができない。かといって茨の道を進みたいかと言えば決してそうではないし、茨の中でもがき苦しむ我慢強さも持ち合わせていない。そうなると中庸、真ん中の普通の道を歩いていくことになるが、普通であることの不安を感じたりもする。
今自分で驚いたのだが、自分が書いた文章がどう見ても愚痴っぽくなっている。社会のせいだ、会社のせいだと文句をたれている人間の言い分となにひとつ違わないことに驚いている。バックスペースを押して全て消してしまいたいと思ったが、自然と書いてしまったのならば、僕はこういう人間だということだろう。誰かが言っていたが、文章を書くこととは、自分と世界の距離感を掴むための手段なのだ。この文章をいつか読み返したときに、この時期の世界に対する距離感はこんなもんだったと後で感じることができたら、それは一つの救いなのかもしれない。その救いが、さっきから僕がこだわっている2歩目の着地点なのかどうかは分からないが、そろそろパソコンを閉じようと思う。なぜなら、雨が降る前に夏用の掛け布団を買いに行かなければならないからだ。