ブログ書いてる場合?

「人間の死に方にはなにがあったっけ?」
「む・・・、病死だろ、寿命で死ぬ奴もいるさ、それに凍死だろ、焼死、自殺に窒息死、溺死もあるな。」
「他には?」
「そりゃたくさんあるよ、殺人、事故死、笑い死に、憤死ってのもあるらしい。これ以上は思いつかないな。それがどうかした?」
「どうやら今夜新しい死に方が増えそうだよ」
「?」
「暇死、暇で死にそうさ」

これはボクが2年前に書いていた小説の冒頭の部分です。結局その小説は先のビジョンが見えなくなり、というか展開を考えずに書きはじめて思いついたことをつらつらと断章形式にして書いていただけなので、続くわけはなかったのですが、16ページほど書いてから途中でぱったりとやめてしまったし、今後いつの日にか再開することもないだろう。だけれどこの冒頭の部分はいま読み返してもなかなかおもしろいんじゃないかな、(もし本当に恥ずかしいような文章ならブログで世界に公開するなんてことはしない)と思ってこうやってブログに公開したのだけれど、みなさんどうですかね?続きを読みたくなりますかね?なりませんか、なりませんよね。まあ、この続きがあと15ページくらいあるのだけれど、その先はひどく恥ずかしいので公開はできない。昔書いた文章を読まれることはまるで、小さい頃のチン毛のまだ生えてない幼児時代の裸を見られているような気分になるから。それはただの気分なのかもしれないけど。

そして小説についてだが、少なくともボク個人はなかなか面白いと思える冒頭の部分があって、ここからどうにかして面白くしていく能力が無かっただけで、どうやら小説なんてうだうだ長いものを書く才能なんぞはボクには無いようで、一日1000字から2000字のブログを書いているのが最も性にあっているようだ。要するに飽き性だから、なにも長く続かない。ブログは長続きしているじゃないか、と言われるかもしれないけど、なぜ続いているのかというと毎日毎日新しい枠組みの中で文章を書いているから続くのであって、小説、特に長編小説になると決まった枠組みのなかで、うだうだうどんと文章を書かなければいけなくて、要するにその変化しない、変化させれない枠組み自体にすぐに飽きてしまうのだろう。だからボクはブログを続けることはできるけれども小説を書くことはできそうにない。これまでも、これからも。

ということは飽きるという致命的かつ犯罪級の感情を克服するには日々異なった枠組みの中で生きていけばいいということになる。毎日女を変えるとか、別の国に行くとか。けれどそんなことしたら周りからの信用やらお金やら職を失ってしまうので、ある程度決まった大きな枠組みの中の比較的小さな枠組みをいかにうまくいじっていくかが、飽きるという感情を阻止する唯一の方法だということになる。もちろんそんなことは自明のことで、誰もが日ごろからそのことを実践している。例えば、女に関して言うと日本という一夫一妻制が確立した国に住んでいる我々は、夜の生活においては毎日新たな体位を試すなどして同じ相手であっても飽きを防ごうと奮闘している。しかしもちろん体位には数に限りがあるし、体位を変えるなんてことはあまりに小手先の話で、毎晩相手にしてる体は同じだし、夜の話じゃなくても、デートコースというのは限りのあるものだったり、考えればもちろん様々なコースがあるが、そういったことを考えるのは面倒で、結局は多くのカップルが決まりきったことを繰り返すだけのデートに終始している。そんな風にして誰もが現状に妥協を重ねて生きているのですよ。

つまり飽きるという感情を通してボクが言いたいのは、まわりのかわいいコがさっさと彼氏と別れないかな〜ってことです。

(5月13日 1時21分)