優雅で独善的な日本野球

九州地方にかかった雨雲が今夜から明日にかけて日本列島を横断し、関西から関東の太平洋側では豪雨の恐れとなるでしょう。日本海側ではそのとばっちりを受け、それほど強くはない雨が間断なく降り続き、明日は北海道を除いて全国的に雨になる模様です。明日行われるプロ野球の交流試合については、札幌ドームでの日本ハムVS阪神を除いては屋外球場で行われるので、中止になる可能性が高いでしょう。

意外と天気予報の文章を作るのは難しいことに気づく。自分が普段からいかに天気予報において天気図しか見てないということに憤りを感じる。しかし人というのは文字ないし言葉で表現されても記憶に残りにくく、ビジュアル化されたものの方が記憶に残りやすいという性質を持っている。そういった観点で芸術及びエンターテイメントを語るとき、文字化されたものの方が比較的上位文化に相当し、ビジュアル化されたものは下位文化に甘んじることになる、というのが一般的な認識である。例えば映画とテレビと文学においては芸術度が高い順に、文学>映画>テレビという序列が成り立つわけで(世間の認識に対するボクの認識では少なくともそうなる)、人はとりあえずのところ分かりにくいものに高い価値をおく傾向があり、そのような一般的なコンセンサスがあるが故にかどうかはわからないが、ボク自身の認識においても文学に比べれば映画のほうが下卑たものであるという考えを持っていて、しかし目下のところボクには小難しい文学を理解する能力がなく、さらにテレビを好きだといえば一応のところ一流大学に通っているというしょうもないプライドが許さないから、映画という無難な位置に置かれているものを好きであると標榜することで、ある程度の洗練された人間ぶろうと頑張ろうとしている。

しかし自分の表現方法としては映像よりもこのようにブログ上で文字で表現するという手法をとっており、先ほど述べたことから鑑みると映像によって表現したほうがいいのではと、自分でも不思議に思うのだが、それでもやはり文字という上位文化媒体において自己表現をすることを選んでいるのはやはりリスクが少ないというのが最も大きな理由である。映像での表現は文字に比べて時間がかかる上に、ひとりではなかなか思うようにいかない。その点文字での表現は誰にも迷惑をかけることなく自分の頭の中に浮かんできたものをそのまま文字化すればいいわけで、さらに見ている側としても映像のように(文字に比べれば)ある程度決まったものを提供されるわけではないので認識に幅が生じる。また、映像で表現することは頭に浮かんだイメージを、現実世界というしょうもないフィールドにおいて再構築しなければならず、例えばなんかの拍子にニューヨークの腐った雑踏に訪れる朝日を表現したいと思えば実際にニューヨークに行くしかなく、それだけでも旅費やら時間やらなんやかやとコストがかかり、さらにニューヨークに行ったところで、雨が降っていれば晴れるまで待つしかないし、晴れていたところで想像通りの絵が撮れるかと言ったらおそらくどこかで妥協するしかなく、こういった面倒くさいことを考えていると映画を作って映像で表現したいなどという欲求は一向に湧いてこない。つまりボクの意見で言うと映像で自分を表現する人は凄いということであり、こうなると先ほど述べた一般的序列においては文字媒体の方がリスクは低いのに上位文化に相当するというのは変な話だが、その序列は見ている人間のレベルという基準のみで位置づけられるものなので、矛盾は生じない。そんなこんなで、ボクは自分ではできないことなので素晴らしい映画を作る人はすごいやん、と思うのである。

と思ったけれどどうやらことはそんなに単純なことではないような気がする。いちいち映画を好きになるときにそんな面倒なことは考えていない、と思う。文字面だけでもまともなものにしようとして適当に自分が設定した論の流れに流されてしまったようだ。ああ、疎外!映画を好きな理由は今考えると上の段落、さらにもう一つ上の段落で述べたこととも違うような気がして、しかも先に述べた「標榜する」というと似非で映画好きなのかという印象を与える。似非かと言うと似非かもしれないが、ボクは似非ではないと盲目的に信じている。よってこれまで述べたことは明日の天気以外は全て嘘であり、ボクが映画を好きである理由は自分でもよくわからない。これが結論。ここまで読んでくれた暇な君、肩透かしくらった?

明日は阪神が勝ちますよーに。(5月6日 0時30分)