こんにちわ、西山death

蓄膿によって死んでしまった友人の葬式に出席せねばならぬので今日一日は喪に服していなければならないわけだがどういうわけか喪服を着る気にはなれなかった。なぜかはよくわからないということもなくそれは、僕自身ああいった形式ばったことに対してはある種の疑問を感じて生きる、ということを目標に設定してるとかそういう理由ではなく、友人の死んだ理由が蓄膿だと言うことに他ならない。今どき医療大国日本、というか無駄に長生き若い所得者が年配の負担を多く強いられる帝国日本において蓄膿で死ぬなんてことはそいつの不注意以外のなにものでもないからだ。一歩外に出ればすぐそこになにかしら病院があるようなこの国において、少しカラダの調子が悪くなれば、つまり喉が痛くなる、血を吐く、チンポが勃たたない、などの症状がでれば、すぐにそれら病院に駆け込むことができるからだ。時に、カラダの調子が悪くなく、妻との関係がうまくいかない人間すらも病院に逃げ込むことが往々にして起こるような国だ。そんな国において蓄膿などというしょうもない原因で死ぬようなことがあればそれは確実にそいつに責任があり、それで死んだとしても文句の一つも言う権利はないのではないか。死んで当然である。そして俺が喪服を着ないのも当然である。ちなみに厳密な意味での喪服は持ってないが。

ここまで言ったところで、死というセンシティブな問題に対して西山君はあまりにひどいことを言っているなあと思う人もいるであろう。それも友人の死でだ。それもそのはず、この友人の話は全くもってはったりであるからして、リアリティを持たず、その上匿名性が保証されるネットというメディアによって展開されている文章なので、たとえどこぞの誰かがこの文章を読んで気分を害したとしてもワタシの命が脅かされるというようなことがないから、こんなことが言えるのであり、さらにワタシの知り合いからの評価が下がろうとも、それはそれでその状況を楽しめる自分がいるからで、そういった意味である程度どのような過激なことを言っても特に問題にはならないが、大好きなあのコがこのブログを見ていたら困るのでそろそろ人の気持ちを考えないような文章をやめようと思うのだが、人の気持ちと言ったところで誰の気持ちかをある程度まで具体的に設定できなければ自分の中でリアリティを持たないのでやっぱりいちいち人の気持ちなんかを考えながらブログを書く気にはなれない。

別に一つの文章で書くつもりはなかったのに、気づいたら句点を一つも使っていない文章になっており、この文体は一体どこから得たものだろうかと思うが、そんなことより昨日ホテルオークラで食ったとびきりうまいカレーの味を思い出すことが今のボクの脳内で活発に行われていることであるので、カレー食いたい。

ホテルオークラの帰りの電車からどこぞの駅のホームで社交ダンスのステップを踏んでいるハゲ親父の姿が見えた。ジェニファーロペス×リチャードギアで作るのはなんともハリウッドの趣味の悪さを感じる。と以前友人が言っていたのを思い出した。その直後にもカレーの味を思い出そうとしていた。